BMWのM部門は、2022年に創立50周年を迎えました。その始まりとなったクルマが、BMW M1です。しかし、M1は同時に、BMWの資金を驚くほどの速さで使い果たしたスポーツカーでもあります。
また、完成までに様々な問題に直面し、BMWはランボルギーニの工場に侵入する事態にまで発展しました。
そして、やっとの思いで完成しても、本来の目的を果たせなかった1台でもあります。
BMWとランボルギーニのパートナーシップは、一体何が問題だったのか?

1970年代の初め、BMWはFIAのレースカテゴリーであるグループ4、グループ5でポルシェに打ち勝つべく、新たにミッドシップスポーツカーの開発を始めました。BMWにはミッドシップスポーツカーのノウハウが無かった為、ランボルギーニに開発とシャーシ関連の製造を委託し、BMWのM部門が車を販売することになりました。
しかし、ランボルギーニは軍事車両でのビジネスに失敗し、資金繰りがうまくいかなくなってしまいます。さらに、同社の作業ペースも非常に遅いものでした。
そこでBMWはランボルギーニとの契約を打ち切りました。しかし、ランボルギーニはM1の部品、プロトタイプ、工具を所有したままでした。ランボルギーニはそれらをBMWに渡すことを拒否し、そのためにM1のプロジェクトは頓挫しかけます。そこでBMWは、右往左往しながらランボルギーニの工場に向かい、自分たちの財産を取り戻したのです。
自分たちの所有物を取り戻したBMWは、M1を再び生産するために奔走することになります。ランボルギーニとの契約解消後は、委託先をシュトゥットガルトのコーチビルダーであるバウアに変更されます。
素晴らしい車に変わりない

委託先が決まったものの、製造にはまずイタリアにシャシを送り、ボディパネルの取り付けと塗装を行い、バウア社にてエンジンなどを組付け、最終的にBMWによって検査が行われるという、複雑で効率の悪いものでした。
それゆえ、当時のグループ4レースに参戦するには、連続する24か月間に400台のM1を生産する必要があるにも関わらず、M1は月に3台前後の生産がやっとでした。そこで、M1がレースに出ないまま終わってしまうことを危惧したBMWは、ワンメイクの「プロカー・シリーズ」を創設しました。F1ドライバーとツーリングカードライバーによる、F1のサポートレースとして催されました。
発表から2年が経った1980年に、連続する24か月間という目標は届かなかったものの、400台目が工場を離れました。FIAは特別に1981年以降のグループ4参戦を認めましたが、1982年には新しくグループCというカテゴリが創設されることになり、それにともない車両規定も改正されてしまいます。
BMWがこの車の製造・販売に苦労したおかげで、M1はFIAの公式シリーズに参戦することはありませんでした。
BMW・M1は完全に商業的に失敗し、意図したレースに参加することはありませんでした。しかし、完成したM1は実に美しい物でした。当時の最も素晴らしい外観の車の 1 つであり、今日では史上最高の M 製品とみなされることもあります。